次々と記録を打ち立てるイチロー。その強さと秘密は、幼少期からの意識の高さ

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イチローといえば、「イチロー節」とも称される独特の表現がお馴染みです。しかしそれは、イチローが、野球に関するすべてのことを考え得る限り考え、準備を進め、悔いなく実行に移してきた。だからこそ、どんな時でも、その言葉には、強い信念が宿り、説得力が伴う。そんな考え方の根底には、多くの人の影響からだと思われがちだが、イチローはあっさりと否定している。では、イチローはいつからこのようなことを発言するようになったのでしょうか。こんな発言をしています

イチロー 「人というのは思い浮かばないですね。でも、そうやって思い浮かべると、高校(愛工大名電)の寮生活は大きかったでしょうね。あのときは、いろんな理不尽なことがあって、下級生は特にね。あのころに、自分がやってることに対する理由付けを考えるようになった。「なんでこういうことを今オレはさせられてるだとか、言われてるとか」ね。まあ、彼ら(上級生)は説明しなかったですけどね。やることに理由がないと、人は納得しない。それは自分が納得してなかったんで、おそらくそう思ったと思うんですけど。そういう発想というのは、今言われるとそこから出てきてるような気がしますね」

『イチロー節』

一流選手のマインド(考え方)は、小学生の時から

イチローは1年を通してほぼ休まずにトレーニングすることで知られています。最近もイチローは年に3日しか休まないと、驚きをもってアメリカで報道されていました。この1994年のインタビューでもイチローは「日本シリーズのゲストで2日練習を休んだだけで、すごく不安だった。練習再開の日、ボールが当たるかなと思った」と語っています。

そんなイチローの意識の高さは、小学校の卒業文集にも表れています。

“『夢』 鈴木 一朗

僕の夢は一流のプロ野球選手になることです。

そのためには中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。活躍できるようになるためには練習が必要です。僕は3才の時から練習を始めています。3才から7才では半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは365日中360日は激しい練習をやっています。

だから、一週間中で友達と遊べる時間は5、6時間です。

そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球選手になると思います。そして、その球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズです。ドラフト一位で契約金は一億円以上が目標です。僕が自信のあるのは投手か打撃です。

去年の夏、僕たちは全国大会に行きました。そして、ほとんどの投手を見てきましたが自分が大会ナンバーワン選手と確信でき、打撃では県大会4試合のうちホームラン3本を打てました。そして、全体を通した打率は5割8分3厘でした。このように自分でも納得のいく成績でした。そして、僕たちは一年間負け知らずで野球ができました。だから、この調子でこれからもがんばります。

そして、僕が一流の選手になって試合に出られるようになったら、お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです。

とにかく一番大きな夢は野球選手になることです。”bokunoyume-suzuki-ichiro

打率よりもヒットを大事にする姿勢

イチローは「4割よりも200本を打ちたい」と語っており、打率よりもヒット数を大事にする考えを持っていました。これは下がることもある打率より、積み重ねていくことができるヒット数をモチベーションにしたいというイチローの信念によるものです。

その考え方はメジャー移籍後も変わらず、10年連続200本安打という金字塔を打ち立てています。

イチローの幼少期~プロ入りまで

小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。エースで4番として活躍。6年生の時に全国大会に出場。小学3年生の頃から学校から帰ると、父親と近くの公園で野球の練習に明け暮れた。やがて学年が上がるにつれて、それだけでは満足できなくなり、町内にある空港バッティングセンターにほぼ毎日通い詰めていた。バッティングセンターに通いつめるあまり、普通の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを作って、行く前に電話したという[要出典]。同センターにはイチロー専用8番打席が現在もある。なお、同時期に稲葉篤紀も同じバッティングセンターに通っていた。稲葉は「隣で同い年くらいの奴がめっちゃ速いボールを簡単に遠くまで飛ばしていた」と話している。

豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属。エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという。地元・愛知の多くの強豪校から誘いが来たが、愛工大名電に進学する。

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愛工大名電高校時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 – 3番) 。2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。高校時代の監督は中村豪。松井秀喜とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。高校3年生の地方大会での打率が7割以上を記録していた程の打者だった。3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501 本塁打19本 二塁打74本 三塁打28本 盗塁131である。高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投手から野手転向を余儀なくされる。投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた。

1991年ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。

入団後の輝かしい成績

=日本プロ野球=

1991年 – 1993年

1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団。1992年7月12日の福岡ダイエーホークス戦で木村恵二投手からライト前へプロ初安打を記録した。
1992年は.366の高打率でウエスタン・リーグの首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの1軍首脳陣から振り子打法を否定され、足の速さを活かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、1軍に定着することはなかった。同年のジュニアオールスターでは同点の8回に代打決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付した(2軍選手でこのことをしたのはイチローが初めてである)。
1992年と1993年でプレーしたウエスタン・リーグでは、2シーズンにまたがり46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)[1]。1993年のウエスタン・リーグでは打率.371を残したが、1軍半であったため規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346)。同年オフにはハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズというチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた。
1993年、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄からプロ初本塁打(1993年6月12日、長岡市悠久山野球場)を放ったものの、その日に2軍降格を言い渡されるなど2軍生活を余儀なくされていたイチローは、同年の秋に、河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。

1994年

監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木」から「イチロー」に変更させ、1軍の2番打者に抜擢する。1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解され、レギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、この年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。打者としてはプロ野球史上最年少でMVPを手にした。

1995年

主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」に。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)、全イニング出場での首位打者は1969年の王貞治に次ぐ史上2人目の快挙。リーグ3位タイの25本塁打で、本塁打王の小久保裕紀とは3本差であり、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩であった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球に加え、当時の日本タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残し、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となる正力松太郎賞も受賞した。

1996年

開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲーム第1戦では初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板し、高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。9月23日の日本ハム戦では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。読売ジャイアンツとの日本シリーズ第1戦では、延長10回に河野博文投手から決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、優秀選手賞を受賞した。

1997年

この年以降は主に3番打者として出場。6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の日本ハム戦で下柳剛投手から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずかに3つである。

1998年

張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。同時に、5年連続・通算5回目となる最多安打を記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)。

1999年

4月20日、日本ハム戦で金村曉投手から本塁打を放ち、プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の西武戦では松坂大輔投手から通算100号本塁打を打った。前半戦だけで19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位の763でストップした。

2000年

プロ野球歴代2位のシーズン打率.387を記録。開幕戦から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日のロッテ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日であったため、この試合終了後、イチローはファンの大声援に手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。
1994年から2000年まで7年連続で首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに、1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。

=メジャーリーグ=

2004年

84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を
5月、メジャー通算200盗塁を達成、その翌日には日米通算400盗塁を達成した。6月、日米通算2500本安打を達成。7月26日に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274本安打を抜いた。8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400マルチヒットを928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーの連続6シーズン通算1313本安打を抜いた。9月7日に日米通算800マルチヒットも達成。9月9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本安打を超え。

2008年

6月7日、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続8シーズン通算1666本安打を抜いた。6月11日にメジャー通算300盗塁を達成し、5日後に日米通算500盗塁を達成。6月21日には1901年以降最多となるポール・ウェイナーが持つ連続8シーズン最多安打1680本安打を超え、7月27日には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーが持つ連続8シーズン最多安打1719本安打を超えた。7月30日、テキサス・レンジャーズのルイス・メンドーサ投手からレフト前に安打を放ち、日米通算3000本安打を達成。日本選手での3000本安打は張本勲以来2人目の快挙である。2175試合目に達成したため、2135試合で達成したタイ・カッブには及ばなかった。
9月17日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦でショートへの内野安打を放ち、8年連続200安打を達成。ウィリー・キーラーが1894年から1901年にかけて記録して以来、107年ぶりの記録を達成した。9月26日のオークランド・アスレチックス戦では8年連続100得点を達成。同一シーズンでの200本安打100得点を8回記録したのはルー・ゲーリック以来2人目、連続記録としては史上初(19世紀の記録を入れるとウィリー・キーラーも達成している)。シーズンを両リーグトップタイの213安打で終了し、メジャータイ記録となる3年連続最多安打(史上7人目)、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について8年連続と伸ばした。

2009年

2009 ワールド・ベースボール・クラシックに出場し、打撃不振に苦しむも、決勝戦で値千金の決勝打を放ち、日本代表の連覇に大きく貢献した。大会終了後はマリナーズに合流してオープン戦数試合に出場したが、極度の疲労により体調を崩し、4月3日に精密検査を受けた結果、胃に出血性の潰瘍が認められ、自身初の故障者リスト(DL)入りとなった。
WBC日本代表でのイチロー4月15日のエンゼルス戦で、張本勲と並ぶ生涯通算安打の日本記録となる3085安打目を満塁本塁打で記録。同時に日米通算1000打点も達成した。当日は「ジャッキー・ロビンソン・デー(詳細はジャッキー・ロビンソンを参照)」だったこともあり、普段は背番号51のイチローも、この日だけは背番号を42に変更して出場した(なお、当日はイチローに限らず、選手や監督、コーチも背番号を42に変更して出場している)。
翌日4月16日には3086安打目をライト前に放ち、記録を更新した。

世界初の快挙へ

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マイアミ・マーリンズのイチロー外野手は14日、敵地で行われたセントルイス・カージナルス戦に7番ライトで先発出場し、4打数1安打を記録。日米通算4191安打とし、タイ・カッブ(元タイガースなど)の持つメジャー歴代2位の記録に並び、残すは歴代第一位 ピート・ローズ(現役期間1963~86)の4,256安打のみとなった。

『イチロー快挙』の朗報を聞く日は、近い。

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